人類にとってラジウム放射能とは?

医学に何をもたらしたか?

舘野 之男

放射線医学総合研究所特別研究員

(株)医療科学社 月刊INNERVISION(インナービジョン)1998年4月号(Vol.13, No.5) より許可を得て転載。


[目次] [ラジウム治療学] [核医学の苗床としてのラジウム] [保健物理学の礎としてのラジウム] [最初に戻る]


ラジウム治療学

 ラジウムは1910年代から50年代に至る半世紀の間,がん治療の領域で,あるいは放射線医学の領域で,ラジウム治療学という大きな分野を形づくっていた。現在の密封小線源治療および超高圧放射線治療の先祖である。

1.ラジウム治療の誕生

 X線に似た放射線を出す物質ということで発見されたラジウムは,発見の当初から,X線と同様,治療への熱い期待を背負っていた。

 ラジウムの生物作用については,1900年にいくつか報告があり,ピエール=キュリー(P. Curie)も自分の腕にラジウムを貼布して色素沈着が起こることを確認している。そして,翌1901年には,パリのサンルイ(St. Louis)病院の皮膚科医師ダンロス(Danlos)に患者治療用のラジウムを提供している。

 1904年ころになると,アメリカ,ヨーロッパでいくつものラジウム治療例がある。しかし,ラジウム治療がきちんとした治療法になったのは,1907年に“フィルタ”が考案されてからである。それまでのラジウム治療は,ラジウムに接触した部分にひどい火傷をつくるのが常であった。その原因はラジウムが出す透過性の低い放射線にあると考えたフランスのドミニチ(Dominici)は,ラジウムに0.1mm厚さの鉛のフィルタをつけることを始めた。彼はこの方法を“超透過性放射線療法(m師hode du rayonnement ultrap始師rant)”と呼んだ。私の考えでは,これが現在の密封小線源治療の元祖である。

2.ラジウム密封小線源治療法の発達

 ラジウム密封小線源治療は,X線の場合と違って巨大な装置を必要としないので,さまざまな形の使い方が発達した。

 貼付あるいは間隔照射と呼ばれるものは,照射したい部位の皮膚にラジウムを入れた容器を当て,特定時間動かないように貼り付けておく方法である。この治療法ではまもなく,一定の深さの皮下まで作用を及ぼさせるには皮膚と線源の間に一定の間隔をとることが大切であることが意識され,間隔照射法とも呼ばれた。これは皮膚がん,乳がんなどに使われた。

 二番目は,膣腔など体腔内に挿入して治療する腔内照射法である。腔内照射法を世界で最初に行ったのは1903年,クリーブス(M. Cleaves)であるという。彼女は1gの臭化ラジウムをガラス管に封入したものを用いた。間隔照射や腔内照射で用いるラジウムはまもなく,容器とフィルタを兼ねた白金の管に密封され,ラジウム管と呼ばれた。これは子宮がんなどに使われた。

 次は,組織内にラジウムを差し込んで治療する組織内照射法である。臨床例で初めてラジウムを病巣に直接刺入したのはアッベ(Abb氏jで,彼は1905年3月,眼球突出のある甲状腺腫に対して外科的に小切開を加え,その切開創にガラス管内に封入したラジウムを挿入し,24時間放置するという方法で治療を行った。こうして使うラジウムも,まもなく容器とフィルタを兼ねた白金容器に密封されるようになるが,この場合の容器は刺入に便利なように針状であったので,ラジウム針と呼ばれた。これは舌がんの治療などに使われた。

 組織内照射の仲間に入るもので,もう1つはラドン・シードである。ラジウムは当時,驚くほど高価であったから,ラジウムから無尽蔵に取れる放射性ガス(ラドン)を用いる方法も発展した。これが“新しく,かつ経済的なラジウム治療法”として提案されたのは1914年である。その方法は,細いガラス管にラドンを詰め,それに金属性の外套をかぶせて,ラジウム針とまったく同様に用いるというものである。1915年になると,ラドンの半減期が短いことを逆手に取って,刺入後いちいち抜去しないで放置しておくという,現在に通ずる方法が堤案された。しかし,ここでラジウム治療の最初の頃と同じ間違いがあった。ラドンを壁の薄い毛細ガラス管に詰めて使ったのである。濾過の問題はファイラ(Failla)が1926年,金の毛細管を用いたことで解決した。この金のカプセルは,形が小さい種子(seed)に似ていたのでラドン・シードと呼ばれた。

3.ラジウム遠隔大量照射

 ラジウムを目的の疾患へできるだけ近づける方向への研究が進められた一方で,そうしたやり方では近付けない深部のがんに対しては,ラジウムを遠距離から照射しようとする努力も行われた。これは,γ線の強度がラジウムからの距離の2乗に逆比例することを利用したもので,体外のずっと離れた位置から照射することによって,深部に達する線量を皮膚に対して相対的に高めようとするものである。しかし,距離を離せば離すほど放射線の絶対量が減るので,この方法を実現するには大量のラジウムが必要である。そこで,この方法は遠隔大量照射法と呼ばれた。

 遠隔大量照射法は装置が大きくなるので,X線治療ともろに競合する。しかし,2つの意味で期待が大きかった。1つはラジウムγ線の透過力である。例えば,30cm離れたところから照射したとして,身体内の10cm深さに到達する線量は,皮膚の線量を100%として,1920〜30年代のX線ではやっと10%を超えるかどうかであるのに対し,ラジウムのγ線では50%にも達する。さらに,ラジウムγ線はX線よりがんに対する効果が高いのではないかという期待もあった。これはいまでは否定されているが,現在,放射線治療学はもとより,放射線生物学や保健物理学で重要な役割を果たしている生物学的効果比:RBEという概念は,この期待を証明しようとして考え出されたものである。

 このようなラジウムに対する期待のためか,ラジウム遠隔大量照射装置は値段がべらぼうに高くなる(ラジウムの値段は1913年ころで1g 16万ドル,金240kg相当であった)にもかかわらず,きわめて早いうちからいろいろなものが製作された。1910年代,すでに0.3gとか2gを用いた装置がつくられているし,1920年代にラジウムの供給が豊富になると,各国では競って2〜10gの装置を製作した。ラジウムパックとかラジウム爆弾と呼ばれたこの種の装置は,1928年にはスウェーデン1,アメリカ2,ベルギー1,フランス2を数えた。1929〜50年までの間に,全世界ではさらに10台の遠隔大量照射装置がつくられ,なかでもニューヨークのルーズベルト(Roosevelt)病院の装置は,50gという大量のラジウムを用いていたことで評判であった。

4.ラジウム治療がもたらしたもの

 ラジウム治療が医学にもたらした功績は数多い。が,ここではまず最初に,子宮がんを例に,ラジウムが手術に勝った話をしよう。

1)子宮がんの低侵襲治療

 1913年,ハレ(Halle)で開かれたドイツ婦人科学会でのこと。いくつかのグループがいっせいに,主として腔内照射による子宮がんの治療で好成績を上げたことを発表した。その報告を聞いて,子宮がん根治手術の開拓者ウェルトハイム(Wertheim)は次のように発言したという。「私が多大の努力を注ぎ,痛ましい思いを重ねながらこれまでにしてきた子宮がんの根治手術が一瞬のうちに覆えされ,不要になったことは,悲しい廻り合わせだと考えざるを得ない」

 しかし,翌1914年には第一次世界大戦が始まり,ドイツ,フランスなどは戦火にさらされる。頑張ったのは戦争に加わらなかったスウェーデンである。1913年から本腰を入れてラジウム治療を始めたスウェーデンでは,1920年ころになると手術よりラジウムが優れたものであることがみとめられ,主だった婦人科医は子宮頸がんの手術を行わなくなった。

 戦後立ち上がったパリでも,1923年からきちんとしたラジウム治療が始められ, 1930年代には,当時パリで手術の優位を主張してウェルトハイムの根治手術を行っていたフォーレ(Faure)の治療とラジウムの比較が行われる。その結果,5年治癒率で言っても,適用範囲のひろさから言っても,致死率の低さから言っても,圧到的にラジウム治療の方が優れていることがみとめられる。

2)さまざまな加速器

 ラジウムはまた,当時の原子物理学からの要求と連動して,さまざまな加速器を発展させる原動力のひとつとなった。遠隔大量照射の項で述べた,透過力の高い放射線への期待である。

 コッククロフト-ウォルトン(Cockcroft-Walton)の装置は,1936年,ロンドンのセント・バーソロミュー(St. Bartholomew)病院に設置され,l MeVで稼働した。これより先の1932年,コッククロフトとウォルトンの2人は,この装置によって加速した710keV陽子を用いてリチウム原子核を破壊している(1932年7月)。この出来事は,加速器を用いて原子核の人工破壊に初めて成功したものとして歴史的に名高い。

 1937年3月1日,ボストンのハンチントン・メモリアル(Huntington Memorial)病院で患者の治療を開始したときは,ヴァン・デ・グラフ(Van de Graaff)の装置である。ヴァン・デ・グラフ装置はその後,2MV程度で運転される放射線治療専用装置として普及し,1959年のIAEAの調査では,世界中で31台稼働中であったという。

 1939年,チャールトン(Charlton)らが発表した共振変圧器型加速器は,ニューヨークのメモリアル(Memorial)病院をはじめとし,主としてアメリカの病院でひろく用いられ,1959年のIAEAの調査では全世界に29基(うち26はアメリカ)設置されていたという。

 以上のほかに1930年代はまた,サイクロトロン,リニアアクセラレータ,ベータトロンなど,多様な粒子加速装置が実現された時代でもある。これらはやがて,放射線医学に新しい手段を提供することになる。

3)Ir-192やCo-60の利用

 人工のラジオアイソトープがつくれるようになると,ラジウムの絶対量不足に悩んでいた放射線治療医たちはラジウム代替品としての利用に期待をかけた。

 1945年にCo-60のγ線のエネルギーが1.1 MeVおよび1.3MeVであることが報告されると,これに注目したケンブリッジ(Cambridge)大学放射線治療学教授のミッチェル(Mitchel)は,1946年,次のように述べている。「ラジウムの代替物としていま最も有望だと思われるものはCo-60である。Co-60からの放射線の平均エネルギーは,普通に濾過を施したラジウムからの放射線の平均エネルギー0.8MeVよりやや高く……放射線治療に用いるのに適当である……カナダの原子炉は半年ごとに数百Ciの放射性コバルトを製造するのは容易であるし,その比放射能もlgあたり1Ci程度のものは得られるに違いない」と。人工ラジオアイソトープを利用した初めての遠隔照射装置はIr-192を利用したもので,1950年,ケンブリッジ大学病院に設置された。Co-60装置(テレコバルト)がつくられたのは,その1年後の1951年である。

 これらIr-192やCo-60はもちろん,密封小線源にも用いられた。


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