がん研究会について

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がん研究会のあゆみ

ヨーロッパから国際連帯の呼びかけ

がん研究会ががん専門研究団体「癌研究会」として発足したのは明治41年(1908年)、今から約1世紀の昔である。当時ヨーロッパを中心に、がんに対する関心が高まり、がん研究の国際協力への呼びかけが日本にもとどいた。癌研究会はその呼びかけに応じる形で創立された。

学会、財界、政界が揃って創立に参加

創立に際しては、青山胤通、山極勝三郎、渋澤栄一、桂太郎等、当時の学会、財界、政界を代表する人物が多数、中心メンバーとして名を連ねた。日露戦争に勝利した日本を、今後は文化国家としても世界の一流国に発展させたいという、当時の人々の熱意が、がん研究会の創立という一事からも伝わってくる。会の目的は、「がん撲滅をもって人類の福祉に貢献する」と高くかかげた。

昭和33年に、癌研会頭であった塩田廣重が第16回癌学会総会で提唱し、日本対がん協会が設立された。がん研は「がん征圧月間」中の集団検診の実施、厚生省の委託による「がん無料相談事業」の実施等を通じ、同協会の活動をバックアップしてきている。

難行した募金運動

癌研究会は、学術集会の開催や研究助成を行う一方、がん研究と治療の専門施設の建設の必要性を訴え、募金活動を行った。しかし、当時はまだ結核など伝染病が重要で、がんの悲惨さはなかなか理解されず、政府からも財界からも、大きな支援は得られなかったのである。大正11年になって天皇陛下から1万円の御下賜金があり、これがはずみとなり、募金が進んだ。

わが国初のがん研究所と病院の開設

昭和9年(1934年)、遂にわが国初のがん専門の研究所とその附属病院が、西巣鴨の地に開設された。癌研究会が募金を始めてから実に26年経っている。開設にこぎつけるために、後の東大総長長與又郎が精魂を傾けて努力をした。また高松宮妃殿下からも多額のご寄附があり、宮妃からのご支援はその後も続いた。内田祥三設計の白亜の5階建の洋風建築は、松林に囲まれた巣鴨の丘の上で燦然と輝いた。

大量のラジウムの寄附を受ける

開設直後に三井報恩会から100万円相当のラジウム5,000mgのご寄附があり、癌研病院は一躍世界有数のラジウム治療施設になった。当時の100万円は現在の数100億円に相当する。学会、医学会はもとより、一般社会もこの寄附を、人類の幸福に寄与する快挙とたたえ、長与又郎はその日の日記に「至誠通天」と記した。

戦火を乗り越えて復興

せっかく設立した施設も、昭和20年4月の東京大空襲で、全て焼失した。しかし癌研究会は、翌年には早くも銀座の南胃腸病院を買収して病院を再興、24年には中原和郎の努力でその屋上に研究所も再建された。全てに不自由の環境でも職員は頑張り、患者数は急増、銀座の癌研病院はがん治療のメッカとなった。

がん対策に国民の関心が高まる

昭和37年頃、国立がんセンターや愛知県がんセンターが開設され、ついで全国に多数のがん専門施設ができた。政府はがん研究に対し補助金を出すようになった。がん研究と治療の専門施設の必要性を説いてきた癌研究会の活動が、半世紀を経て、ようやく実を結びはじめたのである。しかし30年の間唯一の施設だったので、「ガンケン」と言えば当会を意味する習慣は、今でも続いている。

近代的病院を西巣鴨(現在の大塚)に再建

銀座の病院で自らがんの手術を受けた財界人の山田昌作は、その劣悪な施設を憂慮し、がん患者のために立派な設備の病院を作ることを決意して財界から資金を集めた。そのおかげで昭和38年再び西巣鴨の地に、近代的な設備を持った癌研病院ができた。

最高のがん治療を全国に広める

近代的病院の中で、銀座時代に培われた力が十二分に発揮されるようになった。患者は全国津々浦々から集まり、拡大手術、縮小手術、難治がんに対する集学的手術、内視鏡診断、早期がんの発見等々、時代の先端を行く診断と治療が毎日この場でくりひろげられた。見学者はひきも切らず、癌研方式を学んで全国に広めた。

新しい研究所の建築と発展

昭和38年以降、吉田富三研究所長、黒川利雄病院長と安西浩理事長が大きな構想と情熱をもってさまざまな事業を行った。昭和43年には6階建ての研究所が完成し、研究に勢いがついた。その成果は、昭和50年代、菅野所長の時代になって、特にめざましく発揮された。同じころ、検診センターができ、がんの二次予防(早期発見)にも積極的に取り組むことになった。

がん化学治療法センターの開設

手遅れのがんを救う残された道は化学療法である。吉田所長の熱意と、多くの方々のご援助で、昭和48年癌化学療法センターができた。本センターは、アメリカ国立癌研究所とも協力してユニークな活動を続けている。昭和52年には癌化学療法研究診療棟(南棟)も完成し、癌研の施設は戦前の約10倍の規模になった。

がん研究会から広がるさまざまな活動

歴史的に当然のことであるが、日本唯一のがん専門施設として、がん研は多くのがん研究者や専門医を日本全国に送り出して来た。特に近年は、研究所が多くの秀れた研究者を育て、大学等に教授として送り出している。昭和42年に発足した細胞診スクリーナー養成所の卒業生は、いまや日本中に広がってがんの早期発見のために活躍している。他方さまざまな重要な活動ががん研究会を中心にして展開してきている。昭和16年に発足した日本癌学会も、がん研究会の学術集会が発展したものだ。日本対がん協会も、昭和33年にがん研究会の音頭で創立され、がん検診やがん知識の普及に活躍している。またがん研は国際対がん連合(UICC)とも太い繋がりを持ち、その事業に支援を送っている。現在UICCの日本事務局はがん研の中にある。

国の対癌政策への協力

がん研は歴史的に国の、特に文部科学省の、がん研究振興政策に協力して来ている。学術振興会の日米がん協力事業にも、最初から寄与している。また長年に亘り厚生労働省に協力し、がん予防技術職員研修会を開催してきた。

民間の努力で日本文化へ貢献

21世紀の日本の発展のためには、あらゆる面において民間活力を強めることが必要であると云われている。日本を「知的存在感のある国」にしていくためには、特に民間の文化活動の推進が重要であろう。がん研究会は、ほぼ一世紀に亘る歴史を通じて、民間の努力で発展し、多くの成果を上げて来た。公共的性格を持つ秀れた民間の研究所と病院として、日本では例外的存在であり、日本文化の誇るべき存在であると自負している。今後もがん研究会は更なる努力を重ね、明日の日本の文化に、先駆性を持って貢献していこうとしている。

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