がん化学療法センターについて

沿革

最終更新日 : 2023年9月25日

設立

がん化学療法センターは、「化学療法こそ、がんの最終治療手段となるであろう」と考えた吉田富三博士のリーダーシップのもとに、1973年4月に設立された。当時の日米科学協力協定の下で、「効果が予想される薬剤のスクリーニングおよびその実験方法の標準化」を進めるために、日本での実験系の確立、必要な標準腫瘍や情報・技術の受け皿として、がん化学療法センター構想が具体化され、日本船舶振興会(現、日本財団)、中央競馬社会福祉財団をはじめ多方面から経済的支援によって、大塚にあったがん研究所の敷地に誕生した。「がん化学療法の研究は、がん研究所の純粋な研究と分けて考えるべきだ」とした吉田富三博士の見識卓見であったが、残念ながら吉田博士はその開所式の前日に他界され、1973年中に、黒川利雄博士、そして櫻井欽夫博士へと所長職が引き継がれた。

活動の経緯

当センターは開設以来、基礎研究、臨床研究および支援情報の三本建てですすめられてきた。とりわけ、その発足の経緯から、薬剤スクリーニングの標準化を促進することを目的として米国国立がん研究所(NCI)との緊密な連携のもとに、抗がん剤スクリーニン系を導入して実施を行い、またP1210などの白血病モデルや必要なマウスに関する技術・資材の普及に努めてきた。これらの努力は、新しいスクリーニング系であるがん細胞パネル法へと発展し、現在もアカデミアや企業の研究支援に開かれている。

一方、がんの基礎研究を進め、臨床研究者の密接な連携の下に新しい抗がん剤の開発に関わり多くの実績を上げてきた。中でも、がんの薬剤耐性機構の研究は目覚しく、薬剤耐性遺伝子MDR1の遺伝子産物がP-glycoproteinであることを世界に先駆けて同定し、カルシュウム拮抗薬がこの機能を阻害することにより、がん細胞の薬剤耐性を克服できることを示し、世界的に注目を集めた。これらを中心とする一連の研究・開発は、がん細胞の性質の理解に大きく貢献し、その研究成果を薬剤開発につなげることで「分子標的治療薬」の開発に発展してきた。すなわち、がん細胞を殺すことを指標にして試みてき抗がん剤の開発から、がん細胞に特徴的な分子メカニズムを明らかにしその特徴的分子を標的にした薬剤を開発する戦略に転換し、有明移転を機に基礎部、臨床部(化学療法科)に加え、分子生物治療研究部、分子薬理部、遺伝子治療研究室、ゲノム研究部が整備された。これらの研究部は各々の研究課題を進めているが、緊密な連携を持ちながら開発研究を進めている。特に当センターに設置されている臨床部との共同・連携は精力的に進められ、効果的な橋渡し研究へと進化しつつある。

国際協力・情報支援

日本における抗がん剤開発の国際標準化を目指して設立された当センターは、抗がん剤開発に関る国際協力、情報支援でも重要な役割を果たしてきた。「US-Japan Joint Seminar on Anticancer Drug Evaluation」など数々の国際会議を開催して、抗がん剤開発の情報交流・発信に貢献し、また、「NCI−JFCR研究者交流計画」などを実施して人材の育成にも貢献してきた。 これらは時代と共に形と機能を変え、「国際がん化学療法シンポジウム(JFCR-ISCC)」、「日本がん分子標的治療学会」、「抗悪性腫瘍薬開発フォーラム」などとなって、活動が続けられ、その事務局は当センターが支えている。

スクリーニング支援

当センターは、抗がん剤開発に関る情報の収集・発信、国際化においても、米国国立がん研究所(NCI)との緊密な連携のもとに機能してきた。開始された抗がん剤スクリーニングは、スクリーニング系そのものを標準化し、国際化を目指したものであり、日本における抗がん剤開発の基盤を作り、かつ普及する上で大きく貢献してきた。がんの分子生物学が大きく進展し、ヒトゲノムの解読などの新しい情報と技術の展開により、がん研究の進め方も、抗がん剤のスクリーニング方式も大きく変革した。その中で、当初機能したスクリーニング体制の標準化はその役割を達成し、今や、新機能を持ったスクリーニング系、すなわち39系のヒトがん細胞パネルを用いたスクリーニングに進化した。このスクリーニング的アッセイは、メカニズム不明の抗がん作用をもつ化合物の作用機序を容易に予測し得る情報集約的な手法であり、アカデミアや企業から委託を受けて、文部科学省科学研究費補助金などの支援を受けながら化合物のスクリーニングと評価を行っている。

スクリーニング支援

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